アクィラ(客船ローマ)簡易年表

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蛇足だらけのアクィラ(客船ローマ)のよしよし年表です。イタリア艦を始めとした地中海組などの年表を[関連]に追加しています。個人的なメモですが参考になれば。間違い等ありましたらご指摘頂けると嬉しいです。

地中海クルーズ等の日程は調査中、定期航路の日程の追加は未定、随時追記&修正していく予定です。(タシュケントジャーヴィスも未追加)

最終更新日:2018/08/26

ウォーアク(ウォースパイトとアクィラのCP)は良いぞ

 

《前置き》---------------------------------
 【フランチェスコ・カラッチョロ級戦艦】
  イタリア海軍初の超弩級戦艦の艦級。第一次世界大戦の勃発に伴う資材不足により全艦建造停止。仮想敵国であるオーストリア=ハンガリー帝国海軍が計画していた超弩級戦艦に対し、弩級戦艦しかなかったイタリア海軍はイギリスに協力を仰いだ。日米の戦艦は35cm砲を主砲としており、独も35cm砲を主砲とする戦艦を計画していたため、それらを凌駕するものとして、イギリスは未完成である38.1cm砲を主砲とする、クイーン・エリザベス級戦艦を設計し、建造を始めていた。イタリア海軍が技術提供を依頼した頃には主砲は完成しており、38.1cm砲を提供する事ができた。これにより、本級はクイーン・エリザベス級に匹敵する高速戦艦として設計された。

1番艦:フランチェスコ・カラッチョロ
 1914年10月12日、ナポリのカステラマーレ造船所にて起工。やがて第一次世界大戦の勃発に伴う資材不足により建造が停止される。工事の進んだ1番艦のみ、ドックを空けるため、1920年5月12日に進水。その後、アンサルド造船所による航空母艦へと改装する案や、NGIが買い取り客船へと改装する案があったが、両者共に資金不足により廃案となる。海軍はより安価な水上機母艦への改装も提案したが、それでもまだ高価だったためそちらも廃案となる。1921年に解体。

2番艦:クリストーフォロ・コロンボ
 1915年3月14日、ジェノヴァのアンサルド造船所にて起工。同理由により1921年解体。本艦の機関を含む主要な機械類は客船ローマへと流用された。
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 《客船ローマ》-------------------------------
  客船ローマはイタリアで初めて定期便の豪華客船にランク付けされた客船(?)であり、NGIのフラグシップとなった。イタリア客船の中では初めて移民用のクラスを無くし、アメリカ人観光客用のためのクラスを増やした客船だった。(それまで各国の客船業界にとって移民を運ぶことはてっとり早く稼げる収入源であったが、アメリカの移民制限により集客が落ち込んでいる。)
  1等客室の定員は375人、2等客室は236人、ツーリストクラスは312人、3等客室は716人。乗客の定員は合計1639人であり、540人の乗組員が乗船していた。
  客船ローマは客船で初めてデッキにプールを設置したリドデッキの元祖たる船である。当初はリビエラ海岸をイメージして本物の砂まで敷き詰められていたが、清掃が面倒なため砂は廃止されている。このプール付きデッキは評判となり、イタリア客船の大きな売りの一つとなった。これは現代の豪華客船では当たり前の設備の一つとなっている。
  内装は洋上宮殿のようで、金箔を施したバロック様式だった。一等客室はスタジオ・デュクロ(Studio Ducrot)が、二等と三等の客室はスタジオ・モンティ(Studio Monti)が担当した。それに加え、ガリレオ・キーニ,ジャンバティスタ・コメンチーニ(?),コラードパドヴァーニ(?),エルネスト・バジーレ,エットレ・デ・マリア・ベルグレール,レオナルド・ビストルフィ,アドルフォ・デ・カロリス,アンジェロ・ザネッリなど多くの芸術家が関わっている。

ガリレオ・キーニ:フレスコ画や内装等を手掛けた。サルソマッジョーレ・テルメの温泉施設や、パラッツォ・デイ・コングレッシ(旧グランドホテル)、バンコクのアナンタサマーコム殿の内装も彼の作品。絵画や内装の他にも陶器なども手掛けている。
エルネスト・バジーレ:パレルモのマッシモ劇場は彼の父が設計し、彼が完成させた。他にもヴィッラ・イジェア等。ヴィットリオ・デュクロと共にアール・ヌーヴォー様式の家具と装飾に特化した協会を設立した。
アンジェロ・ザネッリ:パンフレットの表紙やポスターに用いられている、客船ローマを象徴する女神ローマの像を彫刻した。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の無名戦士の墓にある、女神ローマ像も彼の作品。

  象徴的な女神ローマの像があるグランドセントラルホールや、噴水付きのエントランスホール、ボールルーム、パーティーホール、子供用ダイニングルームウィンターガーデン、ライティングルーム付き図書館、喫煙室バー、観光案内所、銀行、売店、理容室、美容室、ネイルサロンなどが備えられており、コンサートやミュージカル、映画上映なども行われていた。スポーツデッキではテニス,バトミントン,シャッフルボード,ボクシング,フェンシング(子どもたちのためのフェンシング教室も),射撃など様々なスポーツを楽しむことができた(イタリアはオリンピックのフェンシングのメダル数がトップ)。その他に船内や夜空の下でのダンスパーティ,ダンス教室,ホースレース(大きな馬の駒とサイコロで行う賭け事),ウォーターカーニバル,コスチュームパーティ,トレジャーハント等のアクティビティも行われていた。
  主に花形航路である大西洋航路や、年に何回かの地中海クルーズを行っていた。ジェノヴァ-ニューヨーク間は約10日。主な寄港地はマデイラ、ジブラルタル、ヴィルフランシュ、ナポリ等。地中海クルーズは、例えば1936年の夏では48日間で14ヶ国の23箇所の港を巡っている。他にもカリブ海クルーズ(西インド諸島クルーズ)やデコレーションデークルーズ等も行っている。
  各国の客船業界では移民制限や世界恐慌の影響で苦しめられていたが、イタリアでは政府が喜んで助成金を出していたために赤字は殆ど問題にならなかった。(第二次世界大戦を待たずに幽霊船と化した豪華客船もいる)
  地中海においてはイタリア客船が他国を圧倒するようになる。
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 【1924年
6月:大西洋の客船業界にて三強であった英仏独に追いつくため建造された客船ドゥイリオやジュリオ・チェーザレの成功を機に、NGIとアンサルド造船所が客船ローマとアウグストゥスの建造に契約する。
11月30日:ジェノヴァのアンサルド造船所にて起工。戦艦クリストーフォロ・コロンボの機関や機械類を流用することにより、建造費用を抑え、ジェノヴァの造船技術の粋を集めた高速の豪華客船となる。幸いNGIはファーストクラスのフロア内装を担当したスタジオ・デュクロ(Studio Ducrot)と深い繋がりがあった?(大口顧客?) 内装は金箔を施したバロック様式で、洋上宮殿かお城のようだった。妹と共に20年代におけるイタリア最大の豪華客船となる。第一次世界大戦後に初めて国内で建造された豪華客船であり(戦前に起工されたものを含めると2番目)、ジェノヴァの造船技術を国際レベルに引き上げるものとなった。
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◆:ウォースパイトがジョージ5世が出席する英国艦隊観艦式に出席。その後、ポーツマスにて一度目の近代化改装を受ける。バルジの装着や煙突の一本化などを行った。
7月1日:アメリカにて移民法が制定される。多くの客船業界にとって手軽に儲かり、生命線でもあった移民の客が激減することになる。

 

 【1925年】
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1月24日:国立鉄道会社が発注し、1923年12月20日ラ・スペツィア造船所にて連絡船チッタ・ディ・メッシーナが進水するが、予算不足により売りにだされ、イタリア海軍が購入し、水上機母艦ジュゼッペ・ミラーリアとして再建造が行われる。
4月7日:ニューヨーク造船所にてサラトガが進水する。

 

 【1926年】
2月25日 :進水式が予定されていたが、厳しい寒さにより凍結していたため失敗し翌日に。大勢の観客や関係者がいたが、大臣のユーモアで乗り切る?
2月26日 :ジェノヴァのアンサルド造船所にて無事に進水する。
9月21日 :ジェノバ-ニューヨーク間航路(大西洋航路)で処女航海を行う。
10月2日:ニューヨーク港に停泊中、Vittorio Emanuele III War Veterans Foundation 主催のチャリティーイベントとして甲板上でダンスパーティが開かれる。
12月9日:ニューヨーク港にて船上で船長主催の晩餐会が開かれる。
12月18日:マデイラ島の東100マイルで輸送船ガルネリの乗組員を救助。リオデジャネイロから大理石等を輸送中に嵐に遭い、マストが折れてしまい漂流している所だった。
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◆:ウォースパイトはポーツマスにて一度目の近代化改装工事を終了させた後、地中海艦隊の旗艦となる。所属の移動等はあるものの、戦間期の多くの時間を地中海で過ごす。
12月:ジェノヴァのアンサルド造船所にて、客船ローマの妹、客船アウグストゥスが進水する。翌年の11月に就役し、ジェノバ-ニューヨーク間の定期航路の後、主に南米航路の定期便として航行する。

 

 【1927年】
10月4日:舞台/映画俳優の Angelo Musco が客船ローマで訪米し、マンハッタンオペラハウスにて "L'aria del continente di Martoglio" を公演し国際的なデビューを果たす。
11月:ニューヨーク港に停泊中、Walter Scott Free Industrial School for Crippled Children と Lulu Thorley Lyons Home for crippled and delicate children 主催の card party が開かれる。(チャリティーイベント?)
◆:アメリカで解剖学を学び足を痛めない靴の製法を身に付け、多くのハリウッドスターの顧客を得たサルヴァトーレ・フェラガモが、客船ローマで帰国しフィレンツェでフェラガモ社を設立する。2017年に創業90周年を迎え開かれた「イタリアへの帰還展」では展覧会のロゴや内装が客船をモチーフとされており、客船ローマの模型やパンフレット等も展示された。
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11月1日:水上機母艦ジュゼッペ・ミラーリアが竣工する。兵器輸送や航空機の輸送任務に従事する。
11月16日:ニューヨーク造船所にてサラトガが竣工する。翌年の1月27日に実験を兼ねて、飛行船グラーフ・ツェッペリン(LZ127)の妹、飛行船USSロサンゼルス(ZR-3, LZ126)から燃料補給を受け、パナマ運河を通り太平洋へ向かう。

 

 【1928年】
3月9日:2つ合わせて10万ドルの金塊が入った小さな樽をハドソン川に落としてしまう。1つの樽は翌日に、もう片方の樽は12日にようやくサルベージすることできた。現在の価格だと3億円くらい(?)
10月7日:Apulia の公爵夫妻がアメリカでの新婚旅行の帰りに客船ローマに乗船
◆:ダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォードの夫妻が乗船
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◆:フランスの Fabre Line の客船ローマが引退する。それまでは新聞の客船情報欄にはどちらの国の客船ローマか括弧付きで記載されていた。

 

 【1929年】
‪3月11日‬:Helen Murat 王女と娘の Laura が乗船し、ニューヨーク港に到着する。Murat 王女の妹である Rospigliosi 王女を訪問するため。‬
 ‪5月15日:ニューヨーク港に停泊中、 ‬
The Ladies' Auxiliary Bensonhurst Branch of the United Israel zion Hospital 主催のチャリティーイベントが開かれる。ダンスや軽食会等が行われた。‬
6月19日:ニューヨーク港に停泊中、The House of Good Shepherd 主催のチャリティーイベントが開かれる。コンサートやお茶会等が行われた。
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4月12日:ボルドーのジロンド造船所にてコマンダン・テストが進水する。
10月24日:ウォール街大暴落。世界恐慌のきっかけに。この大恐慌により各国の客船業界は大打撃を受け、数多くの客船が廃業に追い込まれることになる。イタリア自体は元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥っていたため逆に殆ど影響を受けなかったが、客船業界は各国と同じように被害を受けてしまう。しかし、イタリア政府は喜んで助成金を出していたため、赤字は問題にはならなかった。

 

 【1930年】
1月:フェンシングのオリンピック金メダリスト(1大会5個)のネド・ナジが New York Athletic Association のエキシビションに招待され、客船ローマに乗船しニューヨークへ。1935年からはイタリア・フェンシング連盟の会長を務めている。
7月:イタリアで起きたイルピニア地震の被災者を支援するため、Judge Amedeo Bertini 夫妻が客船ローマに乗船しイタリアへと渡る。
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4月27日:ラ・スペツィア造船所にてザラが進水する。

 

 【1931年】
6月15日:客船ローマに乗船した Charlotte Nixon-Nirdlinger と2人の子供達がニューヨークに到着。フィラデルフィアの主要な映画館を全て管理していた夫をリヴィエラのアパートで殺害してしまったものの、正当防衛が認められ無罪になったのだとか。
6月:ニューヨーク港に停泊中、Junior Auxiliary of Columbus Hospital 主催のチャリティーイベントとして甲板上でパーティが開かれる。
◆:漫画家/イラストレーターの Robert LeRoy Ripley が収集した各国の不思議なことを紹介するラジオ番組 "Believe It Or Not" の企画で、地中海に面した北アフリカ諸国を取材するため、Bugs Baer と共に客船ローマに乗船する。
◆:ロータリー国際大会後の観光ツアーで、ナポリからニューヨークまでのツアー部分に客船ローマが用いられる。
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8月1日:客船レックスが進水し、翌年の9月27日にイタリアンラインのフラグシップとして就役する。レックスが進水するまでは客船ローマがイタリアで最大の客船だった。
10月18日:客船レックスの妹の客船コンテ・ディ・サヴォイアが進水する。客船で初めてジャイロスタビライザーを搭載した。(揺れない客船ということだったが、その点に関してはあまり上手くいかなかった?)翌年の11月30日に就役し、姉と共にイタリアで最も有名な豪華客船となる。洋上のリビエラと呼ばれ、姉妹共に全てのイタリア人の誇りとまで思われるようになる。
10月20日ラ・スペツィア造船所にてザラが竣工する。
12月5日:リボルノ造船所にてポーラが進水する。

 

 【1932年】
1月2日:ジェノヴァに拠点を置く"Navigazione Generale Italiana" (NGI),トリノに拠点を置く"Lloyd Sabaudo",トリエステに拠点を置く"Cosulich Line" が合併し、イタリアンライン(Italian Line, Italia Line)(正式名称"Italia Flotte Riunite")となる。理由は第一次世界大戦の影響に続きアメリカの移民制限が行われ、さらに世界恐慌の影響で乗客数に凄まじい落ち込みを経験したため、無駄な競争を削ぎ落とすことを目的としたもの。そして当時の客船業界で三強であった英仏独の三国に匹敵する存在になるため。各客船は揃って煙突のカラーリングをイタリア国旗の色に塗り替えられる。(白い煙突の上部に赤い塗装、その下に間隔を空けて緑のライン)
1月30日:午前3時10分頃、濃霧が原因でニューヨーク港で客船プレジデント・ルーズヴェルトと衝突。幸い双方に怪我人はおらず、客船ローマの損傷は軽かったものの、客船プレジデント・ルーズヴェルトはドックに入る。この事件は新聞の1面に載ったが、当時は新聞記事では連日上海事変の件が報道されていた。(空母加賀と鳳翔が初の実戦に向かうため、29日に佐世保を出向し、31日に上海に到着している)
1月29日-3月1日:地中海クルーズ,32日間
2月22日:客船ローマに乗船していたフィラデルフィアの前市長 Harry Mackey が、ナポリエクセルシオールホテルにてワシントン生誕200周年祭を行い、無線でフィラデルフィアに向けてバースデースピーチが行われた。因みに日本では神戸,大阪,京都で行われ、桜の木が植えられた。
3月4日:地中海クルーズ,32日間
‪5月‬:ダンサーの Betty Chandler が客船ローマでニューヨークに帰国‬
◆:フランツ・レデラーが乗船
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◆:ボルドーのジロンド造船所にてコマンダン・テストが竣工する。就役後は地中海艦隊と協力して就役試験を行う。
2月4日:ニューヨーク州レークプラシッド冬季オリンピックが開催される。開会宣言はフランクリン・ルーズベルト州知事。その後同年の大統領選挙に出馬。翌年に大統領となりニューディール政策を行う。フランクリン・ルーズベルトセオドア・ルーズベルトの親戚で、介添人をしてもらっている。レークプラシッド冬季オリンピックは暖冬の影響で、ボブスレーの競技が閉会式後に行われている。因みにこのオリンピックでのイタリアのメダル数は残念ながら0個だった。
8月:ザラがナポリ湾の軍事演習に参加し、13日にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が乗船する。
8月31日:ジェノヴァのアンサルド社にて重巡ボルツァーノが進水する。
12月21日:リボルノ造船所にてポーラが竣工する。

 

 【1933年】
1月24日:カリブ海クルーズが予定されていたが、客船アウグストゥスに変更になる(1932年12月のお知らせ)
2月11日-3月21日:地中海クルーズ
4月17日:Princess Marion Rospigliosi (Marion Snowden) が乗船
5月26日:バミューダへのショートクルーズ,4日間
5月28日:客船ローマに乗船した有名な劇作家,作曲家,監督,俳優,歌手であるノエル・カワードバミューダに到着する。30日には Philip Vian が艦長の軽巡ドラゴンに乗船する。詳細なエピソードは保留。
7月1日-8月22日:地中海クルーズ,52日間
8月29日:地中海クルーズ,37日間,10港
12月24日:クリスマスクルーズ(カリブ海クルーズ),10日間
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1月14日~3月23日:客船アウグストゥスが世界一周クルーズを行う予定だったが、世界恐慌の影響で多数のキャンセルが出てしまい中止に。日本には桜の季節に宮島,神戸,奈良,京都,横浜,日光-東京,鎌倉に寄港する予定で、有名なゴルファーのジョー・カークウッドが同行する予定でもあった。
7月6~7日:ザラとポーラがナポリ湾で海軍の観艦式に参加し、ムッソリーニがポーラに乗船。
8月:客船レックスがブルーリボン賞を獲得。1935年まで保持したが、その後の競争には参加しなかった。
8月19日:ジェノヴァのアンサルド社にて重巡ボルツァーノが竣工する。

 

 【1934年】
2月~4月:1等客室を312人、ツーリストクラスを502人、3等客室を514人に変更(?)
5月24日:ローマにてFIFAワールドカップの予選、その最終ラウンドとして、後にライバル対決となるアメリカ対メキシコの初対戦が行われる。メキシコ代表が乗った船は体を殆ど動かすことができないものだったが、自信過剰であったため、サッカーだけはアメリカには負けないと確信し、太りすぎの状態で到着。一方のアメリカ代表は1ヶ月の長旅を経て到着したが、船上で体操や練習を行っていたため、メキシコ選手よりも良いコンディションであった。その結果アメリカが4-2で勝利し、メキシコは出場できずに帰国することになった。その十分に身体を動かすことができた客船こそがローマだった。
6月28日:バッド社の水上機「BB-1 パイオニア」がヨーロッパ各地でデモ飛行を終え、客船ローマに乗船し、アメリカに帰国する。バッド社はアメリカで鉄道車両制作を行っていた会社であり、パイオニアはステンレス加工技術を活かして生まれた世界初の全ステンレス製の航空機。イタリアの木製飛行機「SM.56 サヴォイア・マルセッティ」を元に設計されている。ステンレスは工作の困難さと重量の点では不利だが、アルミニウムを使用しないため資源的には有利だった。それでも元の木製よりは僅かに軽くなっている。デモ飛行は成功に終わり、帰国後はハドソン川に降ろされ、ワシントンへと飛び立って行った。
2月10日-3月21日:地中海クルーズ,39日間
3月24日-5月3日:地中海クルーズ,40日間
6月30日-8月22日:地中海クルーズ,53日間,13ヶ国,19港
8月24日-9月27日:地中海クルーズ,34日 (ロシュハシャナというユダヤ暦の新年に合わせた地中海クルーズでもあり、一部ヘブライ語で書かれたパンフレット等も存在する。)
 [関連]
3月:ウォースパイトがポーツマスにて二度目の近代化改装を受ける。ボイラーを強力な物へと交換し、「アン女王の邸宅」と呼ばれた箱型艦橋への変更、主砲塔の仰角の向上、水上機用カタパルトと格納庫、航空機対策としての水平防御の強化や対空火器の搭載など大規模な改装を行った。
4月5日:ジェノヴァ県セストリ・レヴァンテの造船所にてリベッチオが進水する。
6月1日~19日:ニューヨーク港の90番埠頭にてサラトガレキシントンが一般公開される。サラトガは11月頃まで東海岸に。因みにイタリアンラインは97番埠頭。
9月2日:ジェノヴァ県セストリ・レヴァンテの造船所にてリベッチオが竣工する。

 

 【1935年】
1月26日:地中海クルーズ,40日間
2月と10月:トリエステ-ニューヨーク航路(一時的に動けない客船ヴォルカニアか客船サトゥルニアの代わり?)
6月29日-8月22日:地中海クルーズ,54日間
‪8月23日:ニューヨーク港‬。エチオピア戦争の影響(?)で、強力な航空機(ダグラス社の物が16機,カーチス・ライト社の物が5機)の部品が積み込まれる。‬
8月24日:地中海クルーズ,28日間
10月25日-12月5日:地中海クルーズ,41日間
10月25日:エチオピア侵攻に参加するためイタリアに帰国する人達も乗船している(?)
◆:58日間の地中海クルーズへ。ニューヨークを出発して、寄港地はマデイラ,カディス,タンジェ,マラガ,アルジェ,パルマ・デ・マヨルカ,カンヌ,マルタ,ポートサイド,ハイファ,ベイルート,ロードス,ダーダネルス海峡(日中通過),イスタンブールボスポラス海峡ピレウス,ケルキラ,コトル,ドゥブロヴニクヴェニスメッシーナナポリモナコサウサンプトン,ブローニュ=シュル=メール,ロッテルダム。そしてニューヨークへと帰るコースだった。

 

 【1936年】
3月:船体のカラーリングを白に変更。
1月25日:地中海クルーズ,40日間,20港
7月1日:地中海クルーズ,58日間,14ヶ国
8月29日:地中海クルーズ,33日間
12月7日~翌年1月1日:イタリアンラインの正式名称が "Italia Flotte Riunite" から "Societa Italia di Navigazione" (どちらもイタリアンライン)へと変更される。"Societa Finanziaria Marittima" (Finmare)により再編成が行われ、トリエステに拠点を置く "Lloyd Triestino",ヴェネツィアに本拠を置く"Societàdi navigazione Adriatica",ナポリに拠点を置く"Societàdi navigazione Tirrenia"の3社と共に船のルートや雇用を調整し、合理化が行われた。
[関連]
8月:客船ローマとアウグストゥス護衛空母ローマと護衛空母ファルコへと改装する案が出るも、 エチオピア戦争が終結イギリス海軍への脅威が薄れ白紙に。 新造空母研究を続行する。
11月27日:ザラがナポリ湾で行われた海上査察に参加。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とその息子やムッソリーニが乗船した。

 

 【1937年】
◆:シャンパンのパーティー(?)(Great Champagne Debacle)、Hoisting Contest が行われる(詳細不明)
1月30日:地中海クルーズ,39日間
2月21日:客船ローマの地中海クルーズで出会ったカップルが(今回の地中海クルーズなのか前回なのかは不明)、地中海クルーズ中にエジプトのカイロで結婚式を挙げる。
3月12日-4月18日:地中海クルーズ,37日間,13港
6月6日-6月11日:フランスのニースでロータリー国際大会が開かれ、客船ローマと客船レックスがチャーターされる。
6月30日:地中海クルーズ,53日間,20港
8月24日:地中海クルーズ,37日間,8港
10月13日:リビアに第21軍団を設立するため、総司令部のスタッフが客船ローマに乗船しトリポリへと渡る。
12月30日:トリポリへの観光ツアー(?)
 [関連]
◆:イタリアで空軍法が制定される。海軍は固定翼機を保有しないと定められた。
3月:ポーツマスで行われていたウォースパイトの二度目の近代化改装が終了する。地中海艦隊の旗艦に。
4月13日:バーケンヘッド造船所にてアーク・ロイヤルが進水する。アメリカのヨークタウン級や日本の蒼龍型と併せて中型空母の完成型と称された。
6月7日:ナポリ湾でドイツ国防省長官ヴェルナー・フォン・ブロムベルグのために海上査察が行われ、ザラとポーラが参加。
8月22日:ジェノヴァのアンサルド造船所にてリットリオが進水する。

 

 【1938年】
◆:Gustavo Pulitzer Finali に内装のリノベーションを依頼する。他にも機関をフィアット製の新型の物に交換し、煙突を1本に纏める等の近代化改装を行う計画が立てられていた。翌年にはファーストクラスのホールの暖炉の上に飾られる予定のレリーフである、マルチェロ・マスケリーニ作の『地球』のデザイン案として小さなモデルが完成している。しかし、改装の日程が決まる前にイタリア参戦と空母への改装が決まったため実行されなかった。因みにマルチェロ・マスケリーニは戦艦ローマの記念メダルや、会議室に飾られている女神ローマの像も彫刻している。
1月22日-1月28日:カリブ海クルーズ,6日間
1月29日:地中海クルーズ,40日間
4月22日:地中海クルーズ,31日間
5月26日:デコレーションデークルーズ(メモリアルデークルーズ)(カリブ海クルーズ),7日間
6月30日-8月25日:地中海クルーズ,56日間,14ヶ国,23港
8月27日-10月6日:地中海クルーズ
12月26日:カリブ海クルーズ(年越しクルーズ),7日間
[関連]
◆:春の初め頃、ウォースパイトの乗組員達がヴィルフランシュを含むリビエラ地方で休暇を取る。
5月5日:ヒトラーがイタリアに公式訪問した際に再度観艦式が開かれ、ザラとポーラが参加。
11月16日:バーケンヘッド造船所にてアーク・ロイヤルが竣工する。
12月8日:キールのドイッチェヴェルケ造船所にてグラーフ・ツェッペリンが進水する。

 

 【1939年】
2月4日:地中海クルーズ,40日間,15港
3月13日-17日:トリポリで第8回 International Congress of Tropical and Subtropical Agriculture が開かれ、客船ローマがチャーターされる。
6月30日:地中海クルーズ,55日間,20港(3月18日,26日の新聞記事)
7月15日-7月28日:カナダ経由バミューダ島行きのショートクルーズ(7月5日の広告)
7月29日-8月11日:カナダ経由バミューダ島行きのショートクルーズ(7月22日の広告)
8月11日:船長を賞賛(?)するため600人のゲストが集まり、Lido Country club, Lido Beach にて Gala Italian Night Dance が開かれた。ダイニングとダンスのテラスへの入り口には通常の船員と共に客船ローマのタラップが用いられた。
8月12日-8月24日:カナダ経由バミューダ島行きのショートクルーズ(7月22日の広告)
8月26日:地中海クルーズ,40日間(3月18日の新聞記事)
8月25日-9月5日:カリブ海クルーズ(※開戦直前の事情により中止に。各国の客船が港で待機状態に。)
9月7日-9月15日:カリブ海クルーズ,7日間(9月1日の新聞,中止になったかどうかは不明)
9月12日頃:中立の立場を示すためあらゆる対策を施し、営業を再開する。休業していた期間は18日間。ただしマルタ島へは入港禁止に。
9月16日-9月29日:カリブ海クルーズ(7月5日の広告)
9月30日-10月13日:カリブ海クルーズ,13日間(7月5日,9月1日の新聞)
10月14日-10月27日:カリブ海クルーズ(7月5日の広告)
[関連]
◆:ドイツ軍の進水前の空母Bの建造が中断される。
◆:ウォースパイトがイースター休暇でサンレモに滞在しており、長期滞在の予定だったが早めに切り上げ4月10日に港を離れる。この頃は国際的な情勢が不安定であった事も関係があるのかも。ナポリにも寄港していた可能性有り。
◆:ニューヨーク万国博覧会が開催される。期間は4月30日~10月31日と、翌年の5月11日~10月27日まで。テーマは「明日の世界の建設と平和」だったが、会期中に第二次世界大戦が始まってしまい、後半はテーマに反した国際情勢下での開催となってしまった。イタリアのパビリオンにはイタリアンラインレストランがあり、イタリア客船で提供されている料理を食べることができた。レストランにはマーメイドルームやサヴォイアバー,ゾディアックルーム,リドガーデンなどがあり、パビリオンの上部には女神ローマが鎮座している。因みにその女神像は隣のイギリスのパビリオンの写真にまで写り込んでいたりする。
1月17日:ブレスト海軍造船所にてリシュリューが進水する。イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級戦艦、ドイツのビスマルク級戦艦に対抗して建造された。
6月10日:海軍日。ザラはジェノヴァに停泊していた。以降この年はジェノヴァでうまく過ごす。
11月15日:ジェノヴァのアンサルド社にて戦艦インペロが進水する。当初の予定では10月15日だったが、宣伝のためローマ進軍の日である10月18日に変更される。しかし、悪天候のため二度延期された。

 

 【1940年】
1月2日:地中海クルーズ,43日間(※昨年7月時点での予定)
3月下旬:戦争の脅威の増大により再び客船ローマの空母化改装案が持ち上がるが空軍による反対にあう。数週間後、政府は3ヶ月以内には戦争は終わるとの見込みにより却下する。
6月28日:地中海クルーズ,45日間(※昨年7月時点での予定)
5月:増加する交通量に対応するため、ニューヨーク-トリエステ間航路(ジェノヴァ経由)へ変更され、客船レックス,客船コンテ・ディ・サヴォイア,客船アウグストゥスらと共に大西洋航路が4隻体制となる。(客船アウグストゥスは客船ローマと同じニューヨーク-トリエステ間航路)4月29日トリエステ発,5月16日ニューヨーク着,5月18日ニューヨーク発など。
5月16日:アメリカの外交官だった Alexander W. Weddell 夫妻が客船ローマに乗船しスペインから帰国する。
5月16日:ジブラルタルにてイギリスの密輸管理官により30時間拘束される
5月18日:ニューヨーク発(本来の予定)
5月19日:ニューヨーク発(6時間遅れ深夜になったものの無事に出港したため、新聞等でイタリアが直ぐに参戦する予定はないだろうと予想される。)
5月25日:客船レックスや客船アウグストゥスの航海の延期が伝えられ、客船ローマの運航スケジュールも変更となる。これにより新聞等でイタリア参戦の可能性が高まったと予想される。
6月7日:客船や貨物船が動きを止め、イタリア参戦の気配が濃厚になる。
6月10日:イタリア参戦の後、700人の女性と子供をトリポリからナポリへと避難させた(?)
6月24日:トリエステ発(5月25日に変更後のスケジュール,参戦により恐らく中止)
6月29日;ニューヨーク発(変更前のスケジュール)
7月13日:ニューヨーク発(5月25日に変更後のスケジュール,参戦により恐らく中止)
8月10日:ニューヨーク発(変更前のスケジュール)
9月21日:ニューヨーク発(変更前のスケジュール)
[関連]
1月6日:ラ・スペツィアのムッジアーノ造船所にてルイージ・トレッリが進水する。
2月28日:造船台の上で放置さていた空母Bの解体が開始され、四ヶ月後に終了した。
5月6日:ジェノヴァのアンサルド造船所にてリットリオが竣工する。
5月15日:ラ・スペツィアのムッジアーノ造船所にてルイージ・トレッリが竣工する。
6月:ルイージ・トレッリはジェノヴァ湾の哨戒任務を行う。
6月1日:イタリア参戦の日が迫り、ジェノヴァはフランスから攻撃を受ける恐れがあるため、戦艦インペロの工事はトリエステで行われることが決定された。当初は5月31日に出発する予定だったが、悪天候のため延期となった。
6月9日:トリエステの造船所にて戦艦ローマが進水する。
6月9日:戦艦インペロがブリンディジに到着する。参戦日までにトリエステに到着することは困難であり、トリエステでは戦艦ローマが進水し、同時に工事を行うことは不可能であったため、自力航行が可能になるまでブリンディジで工事を進めることが決定される。1942年1月22日まで留まることになる。この頃に戦艦インペロを空母へと改装する案が挙がるが、廃案となっている。現在はヴェネツィア国立造船所の海洋史博物館にて空母改装案の模型を見ることができるが、最近まで空母アクィラの設計案の一つだと思われていた。
4~6月:トラーフェ川に20mの飛行甲板の模型を浮かべ、カタパルトのテストを行う。
6月:グラーフ・ツェッペリンの工事が中断され、ゴーテンハーフェン(グディニャ)へ移動する。港にて木材の保管庫として使用される。
6月19日:ドイツ軍が侵攻してきたため、艤装途中のリシュリューはフランスから脱出。ダカールへ向けて出航する。
6月23日:アーク・ロイヤルがジブラルタルに到着し、地中海西部を担当するH部隊に所属する。当時の艦長セドリック・ホランドはパリの英国公使館付きの海軍武官であり、ヴィシーフランス艦隊の降伏や自沈を交渉するために送られた。
7月22日:ルイージ・トレッリがナポリの第二潜水艦隊に配属されるが、ラ・スペツィアに残る。
8月2日:アーク・ロイヤルがカリアリのイタリア空軍基地への攻撃を成功させる。
8月31日:ルイージ・トレッリがボルドーに設置された潜水艦基地BETASOMへと派遣されることが決まり、ラ・スペツィアを出港する。
9月8日:ルイージ・トレッリがジブラルタル近海に到着する。
9月24日:アーク・ロイヤルがダカール港のリシュリューを攻撃するも、3機撃墜される。
10月:アーク・ロイヤルはヴィシーフランスの植民地に対し、自由フランスへ帰属するように交渉を試みるも、アーク・ロイヤルから飛び立った自由フランス軍の航空機はダカールで囚われてしまい、交渉は失敗する。
10月5日:ルイージ・トレッリがボルドーに到着する。
10月8日:アーク・ロイヤルは改装のためにイギリスに帰国し、リバプールの工廠に入渠する。
11月:タラント空襲。エアカバーが無いため苦戦。リベッチオは爆弾が命中するも不発。魚雷3本を受けたリットリオは数日のうちに浮揚されて応急処置を受け、アンサルド造船所に曳航されたものの、翌年の3月まで行動不能となった。この空襲は英伊含む各国の航空万能論を後押しする形となった。日本海軍は真珠湾攻撃の実施にあたり、この空襲を研究したと言われている。
11月3日:リバプールにてアーク・ロイヤルの改装が終了する。
11月6日:アーク・ロイヤルがジブラルタルに到着し、アレクサンドリアやマルタへの輸送船団の護衛任務に従事する。
11月27日:スパルトヴィエント沖海戦で、アーク・ロイヤルの艦載機によりヴィットリオ・ヴェネトやポーラが空襲にあうが、幸い被害は無かった。
12月7日:Domenico Cavagnari 海軍次官が、改装において機関の変更の必要がない客船レックスや客船コンテ・ディ・サヴォイアの空母化改装案を推し始めていたが、両船ともイタリアンラインのフラグシップであったため海運当局の強い反対にあい更迭される。(タラント空襲の責任をとるため辞職?)
12月11日:ルイージ・トレッリがボルドーにて1ヵ月ほど修理を行う。
12月14日:アーク・ロイヤルとH部隊が大西洋に配備される。
12月20日:アーク・ロイヤルが地中海の輸送船団の護衛任務へと戻る。

 

 【1941年】
7月9日:客船ローマの空母化改装計画をイタリア政府が承認する。客船ローマの近代化改装案の頃から積み替える予定であったフィアット製の新型の機関が完成せず、軽巡コルネリオ・シッラ(未成艦)と妹のパオロ・エミリオ(未進水)用の機関を搭載することになる。
7月12日:イタリア海軍によってジェノヴァで必要とされ、船舶補修修理庁に送られて補助船に変換された。
10月〜11月:ドイツに渡航した技術者により、空母Bのカタパルトやエレベーター等を入手する。
11月:ジェノヴァのアンサルド社で空母への改装が開始される。
[関連]
1月:ルイージ・トレッリが北大西洋において通商破壊作戦に従事する。
2月2日:アーク・ロイヤルのソードフィッシュ隊がサルデーニャのティルソダムの攻撃に向かったが悪天候により失敗する。
2月9日:アーク・ロイヤルがソードフィッシュ隊によるリヴォルノやピサへの攻撃、ラ・スペツィアの石油精製所への爆撃及び港への機雷散布、ジェノヴァへの空襲に成功する。
3月:マタパン岬沖海戦。エアカバー無いため制空権を奪われ、ザラ、フィウメ、ポーラが沈没する。
3月8日:アーク・ロイヤルとH部隊が大西洋に配備される。
3月24日:アーク・ロイヤルが修理のためジブラルタルに戻る。
4月:アーク・ロイヤルが地中海の船団護衛任務に戻る。
5月23日:フッドを撃沈したビスマルクを追撃するため、アーク・ロイヤルが大西洋へ派遣される。イギリスは追撃に割ける全戦力を投入する。アーク・ロイヤルはビスマルクの操舵の自由を奪い、撃沈に大きく貢献する。
5月29日:アーク・ロイヤルがジブラルタルに戻り、地中海の船団護衛任務に復帰する。
6月:ソ連の空襲から守るために、グラーフ・ツェッペリンをシュチェチンへ移動。人通りの多い Hakenterrasse (Wały Chrobrego) 前に停泊し、住民に記念撮影などをされている。
9月:サラトガが Sea Blue 5-S によって塗装され、Measure 11 と呼ばれる迷彩となる。
9月21日:ルイージ・トレッリが損傷し、ボルドーに帰還する。
11月:グラーフ・ツェッペリンがゴーテンハーフェン(グディニャ)へと戻る。再び木材の貯蔵船として用いられる。
11月13日:アーク・ロイヤルはマルタへ航空機を輸送する任務の帰り道、U-81による雷撃を受け船底に大穴が空き、僅か20分で18度も傾斜してしまう。空母カレイジャスのように急激に沈没することを懸念し、艦長は放棄を決定する。しかし被雷後30分経過しても安定しているように見られたため、放棄を撤回。その後復旧作業を行うはずが、被雷後49分経っても実行できず、やがて完全に停電してしまう。駆逐艦による復旧作業や、ジブラルタルから応援に駆け付けたダグボートによる曳航などが行われたが、14日の6時頃に沈没してしまう。沈没したアーク・ロイヤルは2002年に海中探査会社により発見されている。
12月:ドイツの仮装巡洋艦アトランティスと補給艦バイソンが沈没し、ルイージ・トレッリらイタリア潜水艦たちが生存者254名を救助する。この功績により鉄十字勲章が授与される。

 

 【1942年】
11月:爆撃を受けた後、ドックから埠頭の未成軽巡コルネリオ・シッラの艦尾側に移動し、2隻を長い鉄板で繋ぎ埠頭と一体化させる偽装を施される。この頃は艦橋や煙突が未完成であったため効果はあったが、工事が遅れてしまうことになる。
◆:戦艦ローマが就役したため、アクィラへと改名される。当初は "Aquila reale"(イヌワシ) という名前への改名だったが、翌年の7月25日以降に単なる "Aquila" へと定まったとされる説がある。
◆:1943年にかけてペルージャとグイドーニアの空港にて艦載機の試験が行われる。
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◆:客船アウグストゥス護衛空母スパルヴィエロへの改装が開始される。
1月22日:戦艦インペロがブリンディジを出発する。翌日にはヴェネチアに到着するが、この頃には建造の優先順位が最下位となっており、10ヶ月ほど留まることになる。その後トリエステへと向かうが、完成することはなかった。
2月2日:ルイージ・トレッリがアメリカ沿岸での作戦行動を行う。
5月:水上機母艦ジュゼッペ・ミラーリアにて、開戦直後から研究が進められていたイタリア産の空母用(アクィラ用)カタパルトの洋上射出実験が行われ、無事に成功する。
5月13日:グラーフ・ツェッペリンの工事が再開される。
6月:サラトガが Measure 21 と呼ばれる迷彩になる。垂直面が Navy Blue 5-N によって塗装され、飛行甲板が Deck Blue 20-B によって塗装された。
6月3日:バハマ諸島の北東にてルイージ・トレッリが夜間に、レーダーやリーライト等の新技術を装備した爆撃機による攻撃を受け、舵やコンパス等を損傷する。
6月14日:トリエステの造船所にて戦艦ローマが竣工する。
7月15日:座礁や応急修理などを経て、ルイージ・トレッリがボルドーに帰還する。修理には半年ほど掛かることになる。
8月13日:重巡ボルツァーノが、パナレーア島の近海でイギリス潜水艦アンブロークンの雷撃により大破し、ラ・スペツィアにて修復作業に入る。修理を待っている間に空母改装計画が持ち上がるが資金不足により修復作業が進まず消滅。翌年、材料が入手可能になった頃に細かい修理が行われたが、修復作業は殆ど進まず完了することは無かった。
8月:グラーフ・ツェッペリンの最初の海上試験が行われる(艦載機関連は無し)。1943年から1944年の冬までには完成するだろうと予想された。
8月27-28日:夜間に連合軍により空襲を受けるが、グラーフ・ツェッペリンは損傷しなかった。
9月:ジュゼッペ・ミラーリアがアクィラ用に試験を行っていたカタパルトと艦載機(Re.2000 Catapultabile)がリットリオ級戦艦に装備される。
11月8日:アフリカのヴィシーフランス陸海軍は自由フランスに降伏し、リシュリュー自由フランス軍の指揮下に入る。
11月27日:ドイツ軍に鹵獲されるのを防ぐため、フランス海軍がコマンダン・テストを含むトゥーロンに停泊している全艦を一斉に自沈(着底)させる。
12月5日:グラーフ・ツェッペリンキールに曳航され、浮遊式のドライドックに入る。

 

 【1943年】
3月:グラーフ・ツェッペリンの技術者が到着し、飛行機試験の助言を行う。試験は全て陸上で行われた。
8月:エンジンとカタパルトは首尾よくテストできたものの、制動索が機能しなかった。
9月8日:イタリア降伏。工事の進捗度は約80%だった。造船所の労働者達はドイツ軍の手に落ちるのを防ぐために沈めることを試みたが、成功しなかった。その後ドイツ軍に占領された後に接収され、ドイツ軍が艤装の工事を続行する。
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1月30日:大型艦建造停止命令によりグラーフ・ツェッペリンの工事が中止される。一部の限られた作業は3月まで続いた。
1月30日:損傷したリシュリューを修理し、未完だった艤装工事を完了するためにニューヨークへと向かう。
2月11日:リシュリューがニューヨークに到着する。
2月21日:ルイージ・トレッリがブラジル沿岸での作戦に従事する。
2月24日:ブルックリンのニューヨーク海軍工廠にてリシュリューの損傷個所の修理と改装が行われる。因みに、同工廠にてアイオワが1942年8月27日に進水、1943年の2月22日に竣工している。
3月18日:日本から資源輸入のため使用していた輸送船の損失が増えたため、イタリアの潜水艦を輸送船として改装することが決定する。
3月31日:ルイージ・トレッリが潜航に失敗し空襲を受ける。対空戦闘により1機を撃墜もしくは損傷させたものの、損傷し、艦長も重症を負ってしまったため帰還する。
4月:ルイージ・トレッリの輸送船への改装が行われる。バッテリーの一部や機銃以外の武装を外すなどの工夫により、150tの貨物が搭載可能となる。輸送作戦名『アクィラ』に因み、アクィラVIと改名される。アクィラI~アクィラIXに改名された艦はそれぞれ、アクィラI:Enrico Tazzoli,アクィラII:Reginaldo Giuliani,アクィラIII:Commander Alfredo Cappellini,アクィラIV:Guiseppe Finzi,アクィラV:Barbarigo II,アクィラVII:Archimede(?),アクィラVIII:Leonardo da Vinci(?),アクィラIX:Alpino Bagnolini となっていた。
4月:グラーフ・ツェッペリンがParnitz運河に曳航され、水上の燃料タンクとして自沈までの2年間を過ごす。
5月1日:トゥーロンでコマンダン・テストがイタリア軍によって引き揚げられる。
5月3日:バーケンヘッド造船所にてイリジスティブルが起工する。しかし終戦と共に建造は延期になってしまい、進水は1950年、竣工は1955年まで掛かってしまう。彼女は進水前にアーク・ロイヤル(空母・2代目)に改名されている。
6月14日:アクィラVI(ルイージ・トレッリ)が資源や武装を輸送するためボルドーを出港する。
7月25日:ムッソリーニ失脚。
7月30日:リットリオがイタリアと改名される。
8月31日:アクィラVI(ルイージ・トレッリ)がシンガポールに到着する。
9月8日:イタリアが休戦したため、アクィラVI(ルイージ・トレッリ)がドイツ海軍に接収され、UIT-25と改名される。ペナン島周辺海域の警備任務や、ペナン島-神戸間の輸送任務に従事する。
9月9日:イタリア降伏にともない戦艦イタリアとローマを連合軍へ引き渡すためマルタへと向かうが、ドイツ軍にフリッツXによる攻撃を受け戦艦ローマが沈没。戦艦イタリアも損傷を受けるが生き残り、アルジェリアのボーヌ港にてイギリス艦隊に合流。ウォースパイトらに護衛されマルタに到着。その後終戦までスエズ運河のグレートビター湖で過ごす。
9月:トゥーロンでコマンダン・テストがドイツ軍に鹵獲される。
10月10日:ニューヨーク海軍工廠にてリシュリューの工事が完了する。
11月20日リシュリュースカパ・フロー港に到着し、イギリス本国艦隊所属となる。

 

 【1944年】
6月16日:連合軍の空襲により損傷する。
[関連]
3月:リシュリューイギリス海軍東洋艦隊に配属される。スエズ運河を通りインド洋へと向かう。この時、スエズ運河のグレートビター湖にはイタリア(リットリオ)がいる。インド洋ではQE級1番艦クイーン・エリザベスや4番艦ヴァリアントらと共に行動する写真が残っている。
3月22日:ナポリ湾岸のヴェスヴィオ火山が噴火。溶岩が11日間流れ続けた。
3月~5月:サラトガリシュリューを含むイギリス東洋艦隊と共に、インド洋にて合同で作戦を行う。作戦終了後には別れ際のカラー動画や、サラトガから撮影されたリシュリューの写真などが残っている。
8月18~19日:トゥーロンでコマンダン・テストが連合軍の爆撃を受けて着底する。
9月7日:サラトガが Light Gray 5-L や Ocean Gray 5-O,Dull Black 82 によって塗装され、 Measure 32 の Design 11a と呼ばれるダズル迷彩になる。
11月:ペナン島への攻撃が激化したため、UIT-25(ルイージ・トレッリ,アクィラVI)は拠点を神戸へと移す。
11月1日:サラトガの迷彩が Measure 21 に戻される。

 

 【1945年】
4月19日:本艦によるジェノヴァ港の閉塞を防ぐためイタリア共同交戦海軍(元マイアーレの部隊)が、イギリスのチャリオットを用いて海中から爆破を試みる。船底が海草やフジツボで覆われていたため、爆弾を直接設置することができず海底に設置。しかしプリエーゼ式水中防御隔壁により大きな損傷には至らなかった。後日ドイツ軍が大量の爆薬により破壊を試みるが、ジェノヴァに残っていたイタリア人により阻止される。キングストン弁により着底させる方法もあったが、位置が分からなかった可能性と、港内の浅瀬で再浮上が容易であったことからそのまま移動させて港内の細い通路を塞ぐ形で停泊させることになる。
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2月21日:ウォースパイトがカテゴリーCに分類され、予備艦として係留される。終戦後、博物館として残すための保存運動が起こったが、莫大な戦費と植民地の喪失により修復や維持を行う経済的余裕がなかったため却下されてしまう。
2月:トゥーロンでコマンダン・テストが連合軍によって引き揚げられる。修復して練習空母や護衛空母に改装することが検討されたが却下される。戦後フランス海軍の新型空母は、1月にイギリスから自由フランス軍に移籍した護衛空母ディスミュド(護衛空母バイター)しかおらず、リシュリューの妹である未成戦艦ジャン・バールを空母に改装する案もあったが4億フランの費用が必要であったため断念されている。さらにジョッフル級航空母艦は建造中止されており、ベアルンは旧式化が明らかであるため翌年にはトゥーロンで教育訓練艦や潜水艦乗組員宿泊艦となっている。翌年、そのような中でイギリス海軍から空母コロッサスの貸与を受け、空母アローマンシュとして運用が開始されている。
4月25日:ソ連軍による接収を防ぐためにグラーフ・ツェッペリンをParnitz運河で自沈させる。
5月10日:ドイツが降伏したため、神戸の川崎造船所にてオーバーホールを受けていたUIT-25(ルイージ・トレッリ,アクィラVI)は日本海軍に接収され、7月15日に伊504と改名される。
8月:ソ連軍はグラーフ・ツェッペリンの被害の調査を終了し、引き揚げる。
9月2日:第二次世界大戦終戦
9月12日:日本軍の陸軍大将、板垣征四郎によりシンガポールにて行われた降伏調印式に、リシュリューの司令官や上陸戦闘部隊が参加する。英王族で東南方の総指揮官であるルイス・マウントバッテンが降伏申請を受理する。

 

 【1946年】
◆:通路を開けるためアクィラを埠頭の方に少し移動し、翌年港内の別の場所に移動させる。船体を修理し空母として完成させるか、イタリアンラインの客船として再改装するかが検討される。
[関連]
◆:イタリアの客船は全て失われたと思われたが、アメリカに接収され、兵員輸送船として用いられていた客船の内4隻は生き残っていた。ソ連へと売却される話が持ち上がっていたが、イタリアンラインは取り戻すことを諦めていた。しかし、
アルチーデ・デ・ガスペリ首相がトルーマン大統領に直接会いに行き、返還を要請した結果、嘆願は成功し、客船サトゥルニアとヴォルカニアは12月に、客船コンテ・ビアンカマノとコンテ・グランデは翌年の夏に返還された。
2月11日:リシュリューがフランスに帰国し、トゥーロンに到着。復員輸送艦として従事する。
4月16日:神戸に停泊していた伊504(ルイージ・トレッリ,アクィラVI,UIT-25)が連合軍に拿捕され、紀伊水道にて海没処分される。
7月:ウォースパイトの廃艦が決定され、スピットヘッドからポーツマスへと移動し武装解除が行われる。
7月:サラトガビキニ環礁にてクロスロード作戦と呼ばれる原子爆弾の実験に、標的艦として参加。7月25日の BAKER 実験による損傷で沈没。現在のサラトガは漁礁となっており、スキューバダイビングで容易に到達できる浅海で、放射線障害の危険性は低下しているためダイビングスポットとして人気を集めている。
 《補足》----------------------------------
  当実験は核爆発現象を研究するための技術的な実験も行われており、生きている実験用の動物も使用された。原子爆弾には、1945年と1946年に非常に危険な状況下での室内実験中のミスで臨界事故を起こし、科学者2名の命を奪った「デーモン・コア」が用いられた。因みにこの室内実験について、デーモン・コアを素手で触り「あたたかい」との感想を残したファインマンですら「ドラゴンの尻尾をくすぐるようなものだ」と批判し、ノーベル賞を受賞していたフェルミも「そんな調子では年内に死ぬぞ」と忠告したと言われている。クロスロード作戦においてデーモン・コアは完全に消失し、これ以降は製造されていない。
  7月1日、標的艦隊上空 158m で爆発させた ABLE 実験では爆弾が風に流されてしまったため、サラトガの損傷は軽かった。核爆発によって生じた汚染は一時的なもので、沈没せずに残ったほぼ全ての艦に乗艦することができた。続く7月25日、艦隊の水深 27m で爆発させる BAKER 実験が行われ、サラトガは大きな損傷を負い、7時間後に沈没した。この実験では多くの艦が放射能を帯びた水とサンゴ礁由来の放射性降下物を浴びたため、数週間経過するまで乗艦できなかった。続いて水中深くで爆発させる CHARLIE 実験が予定されていたが、BAKER 実験での汚染が予想よりも激しかったために中止された。
  後の1954年に同じ場所でキャッスル作戦と呼ばれる水素爆弾の実験が行われており、危険水域の設定ミスにより、ブラボー実験において2万人以上が被爆しており、アメリカが核実験で引き起こした最悪の被爆事故となった。日本の第五福竜丸を含む漁船数百隻も被爆しており、日本国内において大きな反核運動となり、映画のゴジラ等にも繋がっていく。本来は核融合反応において高レベルの放射性物質が発生する事は無いが、この水素爆弾には起爆剤として原子爆弾が用いられており、それに加え、リチウム7の核反応による出力が予想を上回り、想定の3倍以上の核出力となってしまい、このような事故へと発展した。
  更に1962年のキューバ危機によりアメリカとソ連の対立が核戦争一歩手前までエスカレートしてしてしまい、核実験に伴う死の灰による健康被害や環境破壊への国際的な批判も加わり、1963年に部分的核実験禁止条約が結ばれることになる。
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 【1947~1948年】
[関連]
4月19日:1947年、ウォースパイトは解体を行うためポーツマスからクライド海軍基地に向けて曳航される。しかし曳航中に嵐に遭遇し、曳航ロープが切断されてしまう。そのまま漂流を始めてしまうが、突風の中どうにかコーンウォールのマウント湾に仮泊させることに成功する。しかし今度は嵐により錨鎖がちぎれ、再び漂流を始めてしまう。やがてコーンウォールの Prussia cove に座礁し、完全に解体される1956年まで多くの人々が見物やピクニックに訪れる観光地となった。
◆:1947年、講和条約によりイタリアは新たに(?)戦艦,空母,潜水艦を取得することを禁じられる。
◆:戦艦イタリアがラ・スペツィアに曳航される。その後、アメリカへの賠償艦に割り当てられるが、現地で解体する方針が決定される。イタリア政府は賠償艦適用を解除すべく交渉を行ったが、ソ連も賠償艦を要求していたこともあり、失敗する。
◆:ドイツ軍解体によりグラーフ・ツェッペリンソ連軍に割り当てられる。空母として完成させたい人々もいたが、カテゴリーCに分類されたため叶わず。PB-101と改名され、スヴィネミュンデ(シフィノウイシチェ)まで曳航される。1947年8月17日、悪天候により錨が千切れ漂流しかけたが、標的艦として沈没する。その後2006年にポーランドの石油資源探索会社により発見される。

 

 【1949年頃】
◆:アクィラの修復または改装が技術的もしくは費用的に不可能と判断され、ラ・スペツィアに曳航される。戦艦イタリアと共に解体を待つ。
[関連]
◆:イタリアの会社 Genaviter がアメリカの貨物船/輸送船メディナを購入し、ラ・スペツィアにて客船ローマへと改装する。船籍はパナマに。翌年、International Roman Catholic Travel Committee にチャーターされ、大聖年の巡礼のためにアメリカ(ニューヨーク)から途中経由しながらローマへ3,4回航行する。その後、移民船としてドイツ-オーストラリア間航路へ。
3月24日:昨年設立されたイギリスのアクィラ航空が運行を開始する。飛行艇を旅客機として用いる航空会社で、主にサウサンプトン-マデイラ航路を運行しており、マデイラに初めて空の定期便を出した航空会社だった。始めは週1回のペースで運行していたが直ぐに人気となり、週5回のペースで運行するようになった。最初の1年間で3000人の乗客を運んでいる。マデイラ島は、飛行船グラーフ・ツェッペリン(LZ127)が南米航路に就航していたときは上空から郵便物を投下してもらっており、全ての観光客は船で到着していた。その後イタリアのリビエラへの航路が追加され、ジェノヴァ港にも寄港するようになる。主要なマデイラ航路の乗客は1万6000人を超えるようになる。1958年9月30日のフライトを最後に運行を停止する。

 

 【1950年頃】
[関連]
◆:戦艦イタリアがラ・スペツィアにて解体される。現在はリヴォルノ海軍士官学校に錨が飾られている。
◆:トゥーロンでコマンダン・テストがアメリカ海軍のための浮上倉庫となる。

 

 【1951-1952年】
◆:アクィラがラ・スペツィアにて解体される。
[関連]
◆:メディナから改装された客船ローマがイタリアの Linea C (現在のコスタクルーズ)に購入され、ラ・スペツィアにて大規模な改装が行われた後に豪華客船フランカCとなる。船籍はイタリアのジェノヴァに。開発が間に合わずアクィラに搭載できなかった、フィアット社のディーゼル機関を海軍から購入して搭載している。その後、洋上書店ドゥロスとなり世界最古の現役船にまでなる。現在は引退し、陸上に置かれ、博物館船兼ホテルのドゥロス・フォスになる予定。
◆:アメリカで生まれイギリスで用いられた護衛空母アスリングとフェンサーが購入され、改装された後に客船ローマとシドニーになる。彼女たちは主にジェノヴァ-オーストラリア(メルボルン経由シドニー)間航路へと向かう。客船ローマは1967年にイタリアで解体され、客船シドニーは売却される。売却された客船シドニーは名前を受け継ぎ客船ローマとなる。その後はジェノヴァ-ニューヨーク間航路へ。その後、複数の命名変更を経て1975年にラ・スペツィアにて解体される。
◆:リシュリュートゥーロンにて砲撃訓練船に指定され、地中海士官学校練習艦となる。

 

 【1955年】
[関連]
3月26日:ポーツマスで行われた式典にて、アーク・ロイヤルを失った乗組員達により購入された銀の鐘が、2月25日に竣工したアーク・ロイヤル(空母・2代目)に譲渡される。この鐘は1943年に鋳造されたもので、次にアーク・ロイヤルの名を継ぐ艦のために作成された号鐘となっている。鐘の表面にはアーク・ロイヤルのエンブレムや、1938年11月-1941年11月までの指揮官の名前、この期間に従事した主要な作戦と共に、"From the company who sailed in the Ark in the years 1939-1941 to those who followed them." という言葉が刻まれていた。

 

 【1956年】
[関連]
5月25日:リシュリューがブレストの宿泊施設艦となる。

 

 【1959年】
[関連]
8月:リシュリューが予備役となる。

 

 【1963年】
[関連]
◆:コマンダン・テストが解体のために売却される。

 

 【1967年】
[関連]
12月:リシュリューが退役する。

 

 【1968年】
[関連]
1月16日:リシュリューがQ432と改名される。
9月:Q432(リシュリュー)がジェノヴァの Cantieri Navali Santa Maria によって、ラ・スペツィアにて解体される。

 

 【1990年代】
◆:ジェノヴァの小さなお店の階段裏で、女神ローマの像が発見される。現在は(旧?)ジェノヴァ港ターミナルに飾られており、その場所はイベント等に用いられている。
 (これは1992年のジェノヴァ・プロペラ・クラブにて客船ローマへの言及が無かったことがあり、造船に関わった人々の子孫らが、イタリア客船の歴史の中で黎明期に大きな役割を果たした客船ローマが忘れさられつつあると感じ、友人らと共に探索した結果、女神ローマ像を発見し、起業家らとの接触を経て相応しい場所での保存が実現したようである。)

 

 

 【参考】
・船のウェブサイト,ミスター・オーシャン・ライナーの本
http://www.interq.or.jp/white/ishiyama//column13.html
・Italian Liners, NGI
http://www.italianliners.com/ngi-en
・Italian Liners, Italian Line
http://www.italianliners.com/italia-flotte-riunite-en
・GRANDI TRANSATLANTICI ITALIANI, ROMA (1926)
http://granditransatlantici.blogspot.jp/2010/04/roma-1926.html
・Slide Share, Piroscafo Roma
https://www.slideshare.net/ponentevarazzino/piroscafo-roma-vecchia-signora-del-mare
Transatlantic Era, T/n Roma
http://transatlanticera.blogspot.jp/2015/02/tn-roma.html
wikipedia各ページ
https://www.wikipedia.org/
・艦これwiki各ページ
http://wikiwiki.jp/kancolle/
wikipedia各ページ
https://www.wikipedia.org/
・艦これwiki各ページ
http://wikiwiki.jp/kancolle/