アクィラ(客船ローマ)簡易年表

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 最近は好きな作品について感想や考察を書く体力が無い…!

というわけで、艦これで好きなキャラクターの一人、イタリアの空母、アクィラ(客船ローマ)について個人的に調べたメモを纏めた年表を載せたいと思います。

客船時代について知りたいけれど、殆ど載っていない…! 気になる! という思いがキッカケでしたので、同じような思いの人にとって参考になれば……

動機が不純ですが艦これがキッカケですので、キャラ脳、CP脳基準ということで、アクィラに関係がある艦についても簡易的に年表に載せています。

更に検索ノイズとして引っかかったもののアクィラについて考える上で個人的にツボだった情報についても載せています。

個人的に調べたものなので、間違っている箇所が多々あるかもしれません。

贅肉だらけですがどうぞ。

ではでは~

どのCPも好きですが、ウォースパイト×アクィラに惹かれています笑

 

 

《前置き》----------------------------------

【フランチェスコ・カラッチョロ級戦艦】

 イタリア海軍初の超弩級戦艦の艦級。第一次世界大戦の勃発に伴う資材不足により全艦建造停止。仮想敵国であるオーストリア=ハンガリー帝国海軍が計画していた超弩級戦艦に対し、弩級戦艦しかなかったイタリア海軍はイギリスに協力を仰いだ。日米の戦艦は35cm砲を主砲としており、独も35cm砲を主砲とする戦艦を計画していたため、それらを凌駕するものとして、イギリスは未完成である38.1cm砲を主砲とする、クイーン・エリザベス級戦艦を設計し、建造を始めていた。イタリア海軍が技術提供を依頼した頃には主砲は完成しており、38.1cm砲を提供する事ができた。これにより、本級はクイーン・エリザベス級に匹敵する高速戦艦として設計された。

 

1番艦:フランチェスコ・カラッチョロ

 1914年10月12日、ナポリのカステラマーレ造船所にて起工。やがて第一次世界大戦の勃発に伴う資材不足により建造が停止される。工事の進んだ1番艦のみ、ドックを空けるため、1920年5月12日に進水。その後航空母艦へ改装する案や、NGIが買い取って客船として改装する案があったが、両者共に資金不足により廃案となる。アンサルド造船所はより安価な水上機母艦への改装を提案したが、それでもまだ高価だったためそちらも廃案に。1921年に解体。

 

2番艦:クリストーフォロ・コロンボ

 1915年3月14日、ジェノヴァのアンサルド造船所にて起工。同理由により1921年解体。本艦の機関を含む主要な機械類は客船ローマへと流用された。

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1924年

6月:大西洋の客船業界にて三強であった英仏独に追いつくため建造された客船ドゥイリオやジュリオ・チェーザレの成功を機に、NGIとアンサルド造船所が客船ローマとアウグストゥスの建造に契約する。

11月30日:ジェノヴァのアンサルド造船所にて起工。戦艦クリストーフォロ・コロンボの機関や機械類を流用することにより、建造費用を抑え、ジェノヴァの造船技術の粋を集めた高速の豪華客船となる。幸いNGIはファーストクラスのフロア内装を担当したスタジオ・デュクロ(Studio Ducrot)と深い繋がりがあった?(大口顧客?) 内装は金箔を施したバロック様式で、洋上宮殿かお城のようだった。妹と共に20年代におけるイタリア最大の豪華客船となる。

[関連]

◆:ウォースパイトがジョージ5世が出席する英国艦隊観艦式に出席。その後、ポーツマスにて一度目の近代化改装を受ける。バルジの装着や煙突の一本化などを行った。

7月1日:アメリカにて移民法が制定される。

 

【1925年】

[関連]

1月24日:国立鉄道会社が発注し、1923年12月20日にラ・スペツィア造船所にて連絡船チッタ・ディ・メッシーナが進水するが、予算不足により売りにだされ、イタリア海軍が購入し、水上機母艦ジュゼッペ・ミラーリアとして再建造が行われる。

4月7日:ニューヨーク造船所にてサラトガが進水する。

 

【1926年】

2月25日 :進水式が予定されていたが、厳しい寒さにより凍結していたため失敗し翌日に。大勢の観客や関係者がいたが、大臣のユーモアで乗り切る?

2月26日 :ジェノヴァのアンサルド造船所にて無事に進水する。

9月21日 :ジェノバ-ニューヨーク間航路(大西洋航路)で処女航海を行う。

12月18日:マデイラ島の東100マイルで輸送船ガルネリの乗組員を救助。リオデジャネイロから大理石等を輸送中に嵐に遭い、マストが折れてしまい漂流している所だった。

[関連]

◆:ウォースパイトはポーツマスにて一度目の近代化改装工事を終了させた後、地中海艦隊の旗艦となる。所属の移動等はあるものの、戦間期の多くの時間を地中海で過ごす。

12月:ジェノヴァのアンサルド造船所にて、客船ローマの妹、客船アウグストゥスが進水する。翌年の11月に就役し、ジェノバ-ニューヨーク間の定期航路の後、主に南米航路の定期便として航行する。

 

【1927年】

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11月1日水上機母艦ジュゼッペ・ミラーリアが竣工する。兵器輸送や航空機の輸送任務に従事する。

11月16日:ニューヨーク造船所にてサラトガが竣工する。翌年の1月27日に実験を兼ねて、飛行船グラーフ・ツェッペリン(LZ127)の妹、飛行船USSロサンゼルス(ZR-3, LZ126)から燃料補給を受け、パナマ運河を通り太平洋へ向かう。

 

【1928年】

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◆:フランスの Fabre Line の客船ローマが引退する。それまでは新聞の客船情報欄にはどちらの国の客船ローマか括弧付きで記載されていた。


《補足》-----------------------------------

 客船ローマはイタリアで初めて定期便の豪華客船にランク付けされた客船(?)であり、NGIのフラグシップとなった。イタリア客船の中では初めて移民用のクラスを無くし、アメリカ人観光客用のためのクラスを増やした客船だった。(それまで各国の客船業界にとって移民を運ぶことはてっとり早く稼げる収入源であったが、アメリカの移民制限により集客が落ち込んでいる。)

 1等客室の定員は375人、2等客室は236人、ツーリストクラスは312人、3等客室は716人。乗客の定員は合計1639人であり、540人の乗組員が乗船していた。

 客船ローマは客船で初めてデッキにプールを設置し、リビエラ海岸をイメージして本物の砂を敷き詰めたりもした(悪ノリ?)。このプール付きデッキは評判となり、「リドデッキ」と呼ばれイタリア客船の大きな売りの一つとなった。これは現代の豪華客船では当たり前の設備の一つにまでなっている。

 内装は洋上宮殿のようで、金箔を施したバロック様式だった。一等客室はスタジオ・デュクロ(Studio Ducrot)が、二等と三等の客室はスタジオ・モンティ(Studio Monti)が担当した。それに加え、ガリレオ・キーニ,ジャンバティスタ・コメンチーニ(?),コラードパドヴァーニ(?),エルネスト・バジーレ,レオナルド・ビストルフィ,アドルフォ・デ・カロリス,アンジェロ・ザネッリなど多くの芸術家が関わった。

ガリレオ・キーニ:フレスコ画や内装等を手掛けた。サルソマッジョーレ・テルメの温泉施設や、パラッツォ・デイ・コングレッシ(旧グランドホテル)、バンコクのアナンタサマーコム殿の内装も彼の作品。絵画や内装の他にも陶器なども手掛けている。

エルネスト・バジーレ:パレルモのマッシモ劇場は彼の父が設計し、彼が完成させた。他にもヴィッラ・イジェア等。ヴィットリオ・デュクロと共にアール・ヌーヴォー様式の家具と装飾に特化した協会を設立した。

アンジェロ・ザネッリ:パンフレットの表紙やポスターに用いられている、客船ローマを象徴する女神ローマの像を彫刻した。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の無名戦士の墓にある、女神ローマ像も彼の作品。

 象徴的な女神ローマの像があるグランドセントラルホールや、噴水付きのエントランスホール、ボールルーム、パーティーホール、子供用ダイニングルーム、ウィンターガーデン、ライティングルーム付き図書館、喫煙室、バー、観光案内所、銀行、売店、理容室、美容室、ネイルサロンなどが備えられており、コンサートやミュージカルなども行われていた。スポーツデッキではテニス,バトミントン,シャッフルボード,ボクシング,フェンシング,射撃など様々なスポーツを楽しむことができた。(イタリアはオリンピックのフェンシングのメダル数がトップ)

 主に定期航路として花形航路である大西洋航路や、年に何回かの地中海クルーズを主に行っていた。ジェノヴァ-ニューヨーク間は約10日。主な寄港地はマデイラ、ジブラルタル、ヴィルフランシュ、ナポリ等。地中海クルーズは、例えば1936年の夏では48日間で14ヶ国の23箇所の港を巡っている。他にもカリブ海クルーズ(西インド諸島クルーズ)やデコレーションデークルーズ等も行っている。

 各国の客船業界では移民制限や世界恐慌の影響で苦しめられていたが、イタリアでは政府が喜んで助成金を出していたために赤字は殆ど問題にならなかった。(第二次世界大戦を待たずに幽霊船と化した豪華客船もいる)

 地中海においてはイタリア客船が他国を圧倒していた。

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【1929年】

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4月12日:ボルドーのジロンド造船所にてコマンダン・テストが進水する。

10月24日:ウォール街大暴落。世界恐慌のきっかけに。イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥っていたため、逆に殆ど影響を受けなかった。

 

【1930年】

[関連]

4月27日:ラ・スペツィア造船所にてザラが進水する。

 

【1931年】

[関連]

8月1日:客船レックスが進水し、翌年の9月27日にイタリアンラインのフラグシップとして就役する。レックスが進水するまでは客船ローマがイタリアで最大の客船だった。

10月18日:客船レックスの妹の客船コンテ・ディ・サヴォイアが進水する。客船で初めてジャイロスタビライザーを搭載した。(揺れない客船ということだったが、その点に関してはあまり上手くいかなかった?)翌年の11月30日に就役し、姉と共にイタリアで最も有名な豪華客船となる。洋上のリビエラと呼ばれ、姉妹共に全てのイタリア人の誇りとまで思われるようになる。

10月20日:ラ・スペツィア造船所にてザラが竣工する。

12月5日:リボルノ造船所にてポーラが進水する。

 

【1932年】

1月2日:Navigazione Generale Italiana (NGI),Lloyd Sabaudo,Cosulich Line が合併し、イタリアンライン(Italian Line,Italia Line, Italia di Navigazione)となる。理由は世界恐慌の影響で乗客数に凄まじい落ち込みを経験し、無駄な競争を削ぎ落とすため。そして英仏独の三強に匹敵するため。各客船は揃って煙突のカラーリングをイタリア国旗の色に塗り替える。(白い煙突の上部に赤い塗装、その下に間隔を空けて緑のライン)

1月30日:午前3時10分頃、濃霧が原因でニューヨーク港で客船プレジデント・ルーズヴェルトと衝突。幸い双方に怪我人はおらず、客船ローマの損傷は軽かったものの、客船プレジデント・ルーズヴェルトはドックに入る。この事件は新聞の1面に載ったが、当時は新聞記事では連日上海事変の件が報道されていた。(空母加賀と鳳翔が初の実戦に向かうため、29日に佐世保を出向し、31日に上海に到着している)

[関連]

◆:ボルドーのジロンド造船所にてコマンダン・テストが竣工する。就役後は地中海艦隊と協力して就役試験を行う。

2月4日:ニューヨーク州レークプラシッド冬季オリンピックが開催される。開会宣言はフランクリン・ルーズベルト州知事。その後同年の大統領選挙に出馬。翌年に大統領となりニューディール政策を行う。フランクリン・ルーズベルトセオドア・ルーズベルトの親戚で、介添人をしてもらっている。レークプラシッド冬季オリンピックは暖冬の影響で、ボブスレーの競技が閉会式後に行われている。因みにこのオリンピックでのイタリアのメダル数は残念ながら0個だった。

8月:ザラがナポリ湾の軍事演習に参加し、13日にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が乗船する。

8月31日:ジェノヴァのアンサルド社にて重巡ボルツァーノが進水する。

12月21日:リボルノ造船所にてポーラが竣工する。

 

【1933年】

[関連]

1月14日~3月23日:客船アウグストゥスが世界一周クルーズを行う。日本では宮島、神戸、奈良、京都、横浜、日光-東京、鎌倉に寄港している。

7月6~7日:ザラとポーラがナポリ湾で海軍の観艦式に参加し、ムッソリーニがポーラに乗船。

8月:客船レックスがブルーリボン賞を獲得。1935年まで保持したが、その後の競争には参加しなかった。

8月19日:ジェノヴァのアンサルド社にて重巡ボルツァーノが竣工する。

 

【1934年】

2月~4月:1等客室を312人、ツーリストクラスを502人、3等客室を514人に変更(?)

5月24日:ローマにてFIFAワールドカップの予選、その最終ラウンドとして、後にライバル対決となるアメリカ対メキシコの初対戦が行われる。メキシコ代表が乗った船は体を殆ど動かすことができないものだったが、自信過剰であったため、サッカーだけはアメリカには負けないと確信し、太りすぎの状態で到着。一方のアメリカ代表は1ヶ月の長旅を経て到着したが、船上で体操や練習を行っていたため、メキシコ選手よりも良いコンディションであった。その結果アメリカが4-2で勝利し、メキシコは出場できずに帰国することになった。その十分に身体を動かすことができた客船こそがローマだった。

[関連]

3月:ウォースパイトがポーツマスにて二度目の近代化改装を受ける。ボイラーを強力な物へと交換し、「アン女王の邸宅」と呼ばれた箱型艦橋への変更、主砲塔の仰角の向上、水上機用カタパルトと格納庫、航空機対策としての水平防御の強化や対空火器の搭載など大規模な改装を行った。

4月5日:ジェノヴァ県セストリ・レヴァンテの造船所にてリベッチオが進水する。

6月1日~19日:ニューヨーク港の90番埠頭にてサラトガレキシントンが一般公開される。サラトガは11月頃まで東海岸に。因みにイタリアンラインは97番埠頭。

9月2日:ジェノヴァ県セストリ・レヴァンテの造船所にてリベッチオが竣工する。

 

【1935年】

2月:トリエステ-ニューヨーク航路を2回(?)

◆:58日間の地中海クルーズへ。ニューヨークを出発して、寄港地はマデイラ,カディス,タンジェ,マラガ,アルジェ,パルマ・デ・マヨルカ,カンヌ,マルタ,ポートサイド,ハイファ,ベイルート,ロードス,ダーダネルス海峡(日中通過),イスタンブールボスポラス海峡ピレウス,ケルキラ,コトル,ドゥブロヴニクヴェニスメッシーナナポリモナコサウサンプトン,ブローニュ=シュル=メール,ロッテルダム。そしてニューヨークへと帰るコースだった。

 

【1936年】

3月:船体のカラーリングを白に変更。

[関連]

8月:客船ローマとアウグストゥス護衛空母ローマと護衛空母ファルコへと改装する案が出るも、 エチオピア戦争が終結イギリス海軍への脅威が薄れ白紙に。 新造空母研究を続行する。

11月27日:ザラがナポリ湾で行われた海上査察に参加。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とその息子やムッソリーニが乗船した。

 

【1937年】

◆:シャンパンのパーティー(?)(Great Champagne Debacle)、Hoisting Contest が行われる(詳細不明)

[関連]

◆:イタリアで空軍法が制定される。海軍は固定翼機を保有しないと定められた。

3月:ポーツマスで行われていたウォースパイトの二度目の近代化改装が終了する。地中海艦隊の旗艦に。

6月7日:ナポリ湾でドイツ国防省長官ヴェルナー・フォン・ブロムベルグのために海上査察が行われ、ザラとポーラが参加。

8月22日:ジェノヴァのアンサルド造船所にてリットリオが進水する。

 

【1938年】

◆:Gustavo Pulitzer Finali に内装のリノベーションを依頼する。翌年には、ファーストクラスのホールの暖炉の上に飾られる予定のレリーフマルチェロ・マスケリーニ作の『地球』、そのデザイン案として小さなモデルが完成している。しかし、リノベーションの日程が決まる前にイタリア参戦と空母への改装が決まったため実行されなかった。因みにマルチェロ・マスケリーニは戦艦ローマの記念メダルや、会議室に飾られている女神ローマの像も彫刻している。

[関連]

◆:春の初め頃、ウォースパイトの乗組員達がヴィルフランシュを含むリビエラ地方で休暇を取る。

5月5日:ヒトラーがイタリアに公式訪問した際に再度観艦式が開かれ、ザラとポーラが参加。

12月8日:キールのドイッチェヴェルケ造船所にてグラーフ・ツェッペリンが進水する。

 

【1939年】

◆:定期便の他に今年の夏の地中海クルーズのトリを務める。

[関連]

◆:ドイツ軍の進水前の空母Bの建造が中断される。

◆:ウォースパイトがイースター休暇でサンレモに滞在しており、長期滞在の予定だったが早めに切り上げ4月10日に港を離れる。この頃は国際的な情勢が不安定であった事も関係があるのかも。ナポリにも寄港していた可能性有り。

◆:ニューヨーク万国博覧会が開催される。期間は4月30日~10月31日と、翌年の5月11日~10月27日まで。テーマは「明日の世界の建設と平和」だったが、会期中に第二次世界大戦が始まってしまい、後半はテーマに反した国際情勢下での開催となってしまった。イタリアのパビリオンにはイタリアンラインレストランがあり、イタリア客船で提供されている料理を食べることができた。レストランにはマーメイドルームやサヴォイアバー,ゾディアックルーム,リドガーデンなどがあり、パビリオンの上部には女神ローマが鎮座している。因みにその女神像は隣のイギリスのパビリオンの写真にまで写り込んでいたりする。

6月10日:海軍日。ザラはジェノヴァに停泊していた。以降この年はジェノヴァでうまく過ごす。

11月15日:ジェノヴァのアンサルド社にて戦艦インペロが進水する。当初の予定では10月15日だったが、宣伝のためローマ進軍の日である10月18日に変更される。しかし、悪天候のため二度延期された。

 

【1940年】

4月29日:トリエステ-ニューヨーク航路を1回(?)

6月10日:イタリア参戦の後、700人の女性と子供をトリポリからナポリへと避難させた(?)

[関連]

◆:フィアット社のディーゼル機関が完成しないため、機関交換の必要がないレックスとコンテ・ディ・サヴォイアの改装案が出されたが、海運当局の反対にあい頓挫する。

2月28日:造船台の上で放置さていた空母Bの解体が開始され、四ヶ月後に終了した。

5月6日:ジェノヴァのアンサルド造船所にてリットリオが竣工する。

6月1日:イタリア参戦の日が迫り、ジェノヴァはフランスから攻撃を受ける恐れがあるため、戦艦インペロの工事はトリエステで行われることが決定された。当初は5月31日に出発する予定だったが、悪天候のため延期となった。

6月9日:トリエステの造船所にて戦艦ローマが進水する。

6月9日:戦艦インペロがブリンディジに到着する。参戦日までにトリエステに到着することは困難であり、トリエステでは戦艦ローマが進水し、同時に工事を行うことは不可能であったため、自力航行が可能になるまでブリンディジで工事を進めることが決定される。1942年1月22日まで留まることになる。この頃に戦艦インペロを空母へと改装する案が挙がるが、廃案となっている。現在はヴェネツィア国立造船所の海洋史博物館にて空母改装案の模型を見ることができるが、最近まで空母アクィラの設計案の一つだと思われていた。

4~6月:トラーフェ川に20mの飛行甲板の模型を浮かべ、カタパルトのテストを行う。

6月:グラーフ・ツェッペリンの工事が中断され、ゴーテンハーフェン(グディニャ)へ移動する。港にて木材の保管庫として使用される。

11月:タラント空襲。エアカバーが無いため苦戦。リベッチオは爆弾が命中するも不発。魚雷3本を受けたリットリオは数日のうちに浮揚されて応急処置を受け、アンサルド造船所に曳航されたものの、翌年の3月まで行動不能となった。この空襲は英伊含む各国の航空万能論を後押しする形となった。日本海軍は真珠湾攻撃の実施にあたり、この空襲を研究したと言われている。

 

【1941年】

7月9日:客船ローマの空母化改装計画をイタリア政府が承認する。

7月12日:イタリア海軍によってジェノヴァで必要とされ、船舶補修修理庁に送られて補助船に変換された。

10月〜11月:ドイツに渡航した技術者により、空母Bのカタパルトやエレベーター等を入手する。

11月:ジェノヴァのアンサルド社で空母への改装が開始される。

[関連]

3月:マタパン岬沖海戦。エアカバー無いため制空権を奪われ、ザラ、フィウメ、ポーラが沈没する。

6月:ソ連の空襲から守るために、グラーフ・ツェッペリンをシュチェチンへ移動。人通りの多い Hakenterrasse (Wały Chrobrego) 前に停泊し、住民に記念撮影などをされている。

9月:サラトガが Sea Blue 5-S によって塗装され、Measure 11 と呼ばれる迷彩となる。

11月:グラーフ・ツェッペリンがゴーテンハーフェン(グディニャ)へと戻る。再び木材の貯蔵船として用いられる。

 

【1942年】

◆:戦艦ローマが就役したため、アクィラと改名される。

◆:1943年にかけてペルージャとグイドーニアの空港にて艦載機の試験が行われる。

[関連]

◆:客船アウグストゥス護衛空母スパルヴィエロへの改装が開始される。

1月22日:戦艦インペロがブリンディジを出発する。翌日にはヴェネチアに到着するが、この頃には建造の優先順位が最下位となっており、10ヶ月ほど留まることになる。その後トリエステへと向かうが、完成することはなかった。

5月:水上機母艦ジュゼッペ・ミラーリアにて、開戦直後から研究が進められていたイタリア産の空母用カタパルトの洋上射出実験が行われ、無事に成功する。

5月13日:グラーフ・ツェッペリンの工事が再開される。

6月:サラトガが Measure 21 と呼ばれる迷彩になる。垂直面が Navy Blue 5-N によって塗装され、飛行甲板が Deck Blue 20-B によって塗装された。

6月14日:トリエステの造船所にて戦艦ローマが竣工する。

8月13日:重巡ボルツァーノが、パナレーア島の近海でイギリス潜水艦アンブロークンの雷撃により大破し、ラ・スペツィアにて修復作業に入る。修理を待っている間に空母改装計画が持ち上がるが資金不足により修復作業が進まず消滅。翌年、材料が入手可能になった頃に細かい修理が行われたが、修復作業は殆ど進まず完了することは無かった。

8月:グラーフ・ツェッペリンの最初の海上試験が行われる(艦載機関連は無し)。1943年から1944年の冬までには完成するだろうと予想された。

8月27-28日:夜間に連合軍により空襲を受けるが、グラーフ・ツェッペリンは損傷しなかった。

12月5日:グラーフ・ツェッペリンキールに曳航され、浮遊式のドライドックに入る。

 

【1943年】

3月:グラーフ・ツェッペリンの技術者が到着し、飛行機試験の助言を行う。試験は全て陸上で行われた。

8月:エンジンとカタパルトは首尾よくテストできたものの、制動索が機能しなかった。

9月8日:イタリア降伏。工事の進捗度は約80%だった。造船所の労働者達はドイツ軍の手に落ちるのを防ぐために沈めることを試みたが、成功しなかった。その後ドイツ軍に占領された後に接収され、ドイツ軍が艤装の工事を続行する。

[関連]

1月30日:大型艦建造停止命令によりグラーフ・ツェッペリンの工事が中止される。一部の限られた作業は3月まで続いた。

4月:グラーフ・ツェッペリンがParnitz運河に曳航され、水上の燃料タンクとして自沈までの2年間を過ごす。

7月25日:ムッソリーニ失脚。

7月30日:リットリオがイタリアと改名される。

9月9日:イタリア降伏にともない戦艦イタリアとローマを連合軍へ引き渡すためマルタへと向かうが、ドイツ軍にフリッツXによる攻撃を受け戦艦ローマが沈没。戦艦イタリアも損傷を受けるが生き残り、アルジェリアのボーヌ港にてイギリス艦隊に合流。ウォースパイトらに護衛されマルタに到着。その後終戦までスエズ運河のグレートビター湖で過ごす。

 

【1944年】

6月16日:連合軍の空襲により損傷する。

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3月22日:ナポリ湾岸のヴェスヴィオ火山が噴火。溶岩が11日間流れ続けた。

9月7日:サラトガが Light Gray 5-L や Ocean Gray 5-O,Dull Black 82 によって塗装され、 Measure 32 の Design 11a と呼ばれるダズル迷彩になる。

11月1日:サラトガの迷彩が Measure 21 に戻される。

 

【1945年】

4月19日:本艦によるジェノヴァ港の閉塞を防ぐためイタリア共同交戦海軍(元マイアーレの部隊)が、イギリスのチャリオットを用いて海中から爆破を試みる。船底が海草やフジツボで覆われていたため爆弾を直接設置することができず、防波堤の外側の海底に設置することでアクィラを大破させる(?)沈没させることは叶わなかったが、港の閉塞に用いられることは回避できた(諸説あり)。その後、ドイツ軍によってその場で自沈処分となる。

[関連]

4月25日:ソ連軍による接収を防ぐためにグラーフ・ツェッペリンをParnitz運河で自沈させる。

8月:ソ連軍はグラーフ・ツェッペリンの被害の調査を終了し、引き揚げる。

9月2日:第二次世界大戦終戦

 

【1946年】

◆:アクィラが浮揚され、修理して空母として完成させるか、商船として改装するかが検討される。

[関連]

◆:イタリアの客船は全て失われたと思われたが、アメリカに接収され、兵員輸送船として用いられていた客船の内4隻は生き残っていた。ソ連へと売却される話が持ち上がっていたが、イタリアンラインは取り戻すことを諦めていた。しかし、アルチーデ・デ・ガスペリ首相がトルーマン大統領に直接会いに行き、返還を要請した結果、嘆願は成功し、客船サトゥルニアとヴォルカニアは12月に、客船コンテ・ビアンカマノとコンテ・グランデは翌年の夏に返還された。

7月:サラトガビキニ環礁にてクロスロード作戦と呼ばれる原子爆弾の実験に、標的艦として参加。7月25日の BAKER 実験による損傷で沈没。現在のサラトガは漁礁となっており、スキューバダイビングで容易に到達できる浅海で、放射線障害の危険性は低下しているためダイビングスポットとして人気を集めている。

《補足》-----------------------------------

 当実験は核爆発現象を研究するための技術的な実験も行われており、生きている実験用の動物も使用された。原子爆弾には、1945年と1946年に非常に危険な状況下での室内実験中のミスで臨界事故を起こし、科学者2名の命を奪った「デーモン・コア」が用いられた。因みにこの室内実験について、デーモン・コアを素手で触り「あたたかい」との感想を残したファインマンですら「ドラゴンの尻尾をくすぐるようなものだ」と批判し、ノーベル賞を受賞していたフェルミも「そんな調子では年内に死ぬぞ」と忠告したと言われている。クロスロード作戦においてデーモン・コアは完全に消失し、これ以降は製造されていない。

 7月1日、標的艦隊上空 158m で爆発させた ABLE 実験では爆弾が風に流されてしまったため、サラトガの損傷は軽かった。核爆発によって生じた汚染は一時的なもので、沈没せずに残ったほぼ全ての艦に乗艦することができた。続く7月25日、艦隊の水深 27m で爆発させる BAKER 実験が行われ、サラトガは大きな損傷を負い、7時間後に沈没した。この実験では多くの艦が放射能を帯びた水とサンゴ礁由来の放射性降下物を浴びたため、数週間経過するまで乗艦できなかった。続いて水中深くで爆発させる CHARLIE 実験が予定されていたが、BAKER 実験での汚染が予想よりも激しかったために中止された。

 後の1954年に同じ場所でキャッスル作戦と呼ばれる水素爆弾の実験が行われており、危険水域の設定ミスにより、ブラボー実験において2万人以上が被爆しており、アメリカが核実験で引き起こした最悪の被爆事故となった。日本の第五福竜丸を含む漁船数百隻も被爆しており、日本国内において大きな反核運動となり、映画のゴジラ等にも繋がっていく。本来は核融合反応において高レベルの放射性物質が発生する事は無いが、この水素爆弾には起爆剤として原子爆弾が用いられており、それに加え、リチウム7の核反応による出力が予想を上回り、想定の3倍以上の核出力となってしまい、このような事故へと発展した。

 更に1962年のキューバ危機によりアメリカとソ連の対立が核戦争一歩手前までエスカレートしてしてしまい、核実験に伴う死の灰による健康被害や環境破壊への国際的な批判も加わり、1963年に部分的核実験禁止条約が結ばれることになる。

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【1947~1948年】

[関連]

◆:1947年、講和条約によりイタリアは新たに(?)戦艦,空母,潜水艦を取得することを禁じられる。

◆:戦艦イタリアがラ・スペツィアに曳航される。その後、アメリカへの賠償艦に割り当てられるが、現地で解体する方針が決定される。イタリア政府は賠償艦適用を解除すべく交渉を行ったが、ソ連も賠償艦を要求していたこともあり、失敗する。

◆:ドイツ軍解体によりグラーフ・ツェッペリンソ連軍に割り当てられる。空母として完成させたい人々もいたが、カテゴリーCに分類されたため叶わず。PB-101と改名され、スヴィネミュンデ(シフィノウイシチェ)まで曳航される。1947年8月17日、悪天候により錨が千切れ漂流しかけたが、標的艦として沈没する。その後2006年にポーランドの石油資源探索会社により発見される。

 

【1949年頃】

◆:アクィラの修復または改装が技術的もしくは費用的に不可能と判断され、ラ・スペツィアに曳航される。戦艦イタリアと共に解体を待つ。

[関連]

◆:イタリアの会社 Genaviter がアメリカの貨物船/輸送船メディナを購入し、ラ・スペツィアにて客船ローマへと改装する。船籍はパナマに。翌年、International Roman Catholic Travel Committee にチャーターされ、大聖年の巡礼のためにアメリカ(ニューヨーク)から途中経由しながらローマへ3,4回航行する。その後、移民船としてドイツ-オーストラリア間航路へ。

3月24日:昨年設立されたイギリスのアクィラ航空が運行を開始する。飛行艇を旅客機として用いる航空会社で、主にサウサンプトン-マデイラ航路を運行しており、マデイラに初めて空の定期便を出した航空会社だった。始めは週1回のペースで運行していたが直ぐに人気となり、週5回のペースで運行するようになった。最初の1年間で3000人の乗客を運んでいる。マデイラ島は、飛行船グラーフ・ツェッペリン(LZ127)が南米航路に就航していたときは上空から郵便物を投下してもらっており、全ての観光客は船で到着していた。その後イタリアのリビエラへの航路が追加され、ジェノヴァ港にも寄港するようになる。主要なマデイラ航路の乗客は1万6000人を超えるようになる。1958年9月30日のフライトを最後に運行を停止する。

 

【1950年頃】

[関連]

◆:戦艦イタリアがラ・スペツィアにて解体される。現在はリヴォルノ海軍士官学校に錨が飾られている。

 

【1951-1952年】

◆:アクィラがラ・スペツィアにて解体される。

[関連]

◆:メディナから改装された客船ローマがイタリアの Linea C (現在のコスタクルーズ)に購入され、ラ・スペツィアにて大規模な改装が行われた後に豪華客船フランカCとなる。船籍はイタリアのジェノヴァに。開発が間に合わずアクィラに搭載できなかった、フィアット社のディーゼル機関を海軍から購入して搭載している。その後、洋上書店ドゥロスとなり世界最古の現役船にまでなる。現在は引退し、陸上に置かれ、博物館船兼ホテルのドゥロス・フォスになる予定。

◆:アメリカで生まれイギリスで用いられた護衛空母アスリングとフェンサーが購入され、改装された後に客船ローマとシドニーになる。彼女たちは主にジェノヴァ-オーストラリア(メルボルン経由シドニー)間航路へと向かう。客船ローマは1967年にイタリアで解体され、客船シドニーは売却される。売却された客船シドニーは名前を受け継ぎ客船ローマとなる。その後はジェノヴァ-ニューヨーク間航路へ。その後、複数の命名変更を経て1975年にラ・スペツィアにて解体される。

 

【1990年代】

◆:ジェノヴァの小さなお店の階段裏で、女神ローマの像が発見される。現在は(旧?)ジェノヴァ港ターミナルに飾られており、その場所はイベント等に用いられている。

(これは1992年のジェノヴァ・プロペラ・クラブにて客船ローマへの言及が無かったことがあり、造船に関わった人々の子孫らが、イタリア客船の歴史の中で黎明期に大きな役割を果たした客船ローマが忘れさられつつあると感じ、友人らと共に探索した結果、女神ローマ像を発見し、起業家らとの接触を経て相応しい場所での保存が実現したようである。)

 

 

 

【参考】

船のウェブサイト ミスター・オーシャン・ライナーの本

ItalianLiners NGI

ItalianLiners Italian Line

GRANDI TRANSATLANTICI ITALIANI Roma(1926)

"Piroscafo Roma": vecchia signora del mare